助けは想定した形で来るとは限らない(支援力、受援力について考える)

一般の方向け

はじめに

まずは以下の話を読んでもらいたい。

20世紀半ば(1950年代前後)の米国で、教会の説教・サンデースクール・説話集で口承的に広まったと考えられている、英語圏キリスト教(主にプロテスタント)で長年語られてきた無名の説話。“The Parable of the Flood”、“The Man Who Waited for God”、“God Will Save Me”
などと呼ばれている。(文献上の「初出」「作者」は確認されていない)(動画がたくさん作成されている)

ここで宗教の話をするのではないので、一般的な何らかのメッセージを伝えるための、例え話として読んでもらいたい。

男が一人、小さな町に住んでいた。ある年、大雨が続き、町は少しずつ水に浸かり始めた。

水かさが上がってきたころ、一人の警官が家の前に来て言った。
「ここは危険です。今すぐ避難してください。これからもっと水が増えます」

しかし男は答えた。
「私は神を信じています。神が必ず助けてくれます。避難する必要はありません」

そう言うと、警官はその場を去った。

やがて水はさらに増し、家の中まで入り込んできた。男は仕方なく屋根の上に避難した。

しばらくすると、一そうのボートが近づいてきた。ボートに乗った人たちが叫んだ。
「早く乗ってください!ここから離れれば助かります!」

だが男は言った。
「いいえ、結構です。私は神を信じています。神が助けてくれます」

そうしてボートは去っていった。

それでも水は止まらず、ついには屋根を越えるほどの高さになった。

今度は、頭上にヘリコプターがやってきた。パイロットが拡声器で叫んだ。
「ハシゴにつかまって!これが最後のチャンスです!」

それでも男は答えた。
「神が助けてくれるから大丈夫です」

男がそう言っているうちに、水はさらに増し、ついに男は濁流にのまれて死んでしまった。

あの世で男は神の前に立ち、こう尋ねた。
「神様、私はあなたを信じていました。ずっと祈っていました。どうして助けてくださらなかったのですか?」

すると神は静かに答えた。
「私はおまえを三度助けようとした。まず警官を送り、次にボートを送り、最後にヘリコプターまで送った。それでもなお、おまえはすべてを断ったのだ。いったい、これ以上何を望んだというのか」

この話から何を得るのか

一般的には、

神は人を通して働く

神の助けは現実的な手段として与えられる

というメッセージとされるようだ。

支援やチャンスは、いつも「自分の想定どおりの形」「自分の望む形」で来るとは限らない

むしろ、違和感のある形、少し気に入らない形、想定よりショボく見える形で目の前に現れることのほうが多い。この寓話で、男の前に現れたのは警官と舟とヘリコプターだった。彼が期待していた「神の助け」とは違う形で来たがゆえに、彼はそれをすべて拒み、最後には命を落とした。

以下、この寓話をたたき台にしながら、「支援」「チャンス」「受援力」について整理してみる。

支援・チャンスはどんな顔をして現れるのか

支援やチャンスは、たいてい次のような形で現れる。

  • 自分が望んでいた相手ではない人からの申し出
  • 条件が「完璧」ではない制度やサービス
  • 仕事で言えば、やや回り道に見える異動やポジション
  • 医療なら、「とりあえず一度相談だけでも」といった半端な接点

寓話の男にとって、警官も舟もヘリコプターも、彼のイメージする「神の直接介入」ではなかった。だから彼はそれらを助けとして認識できず、「自分はまだ待つべきだ」と判断してしまった。

医療現場でもよく似たことが起きる。
「専門医紹介はまだ早い」「カウンセリングは自分には大げさ」「生活保護は自分のような人が使うものではない」など、支援の入口を“本物ではない”として見送ってしまう。
だが現実には、その「入口」こそが、もっとも来てほしかった支援そのものだったりする。

本当に困っているなら選り好みすべきではない?

「本当に困っているなら、選り好みなんてしている場合じゃない」

これは半分は事実だ。
生命の危機が迫っている場面では、人は細かい希望や条件を捨てて、とにかく生き延びる方向を選ぶ。集中治療室で「この医師よりあの医師のほうが」と言っている余裕は、たいていない。

ただ、このフレーズを他人に向けた瞬間、話は危うくなる。

  • 外から見える「まだ余裕あり」と、本人にとっての「ギリギリのライン」は違う
  • 過去に支援で傷ついた人にとっては、「選り好み」ではなく「防衛」のことがある
  • 「本当に困り切ってから」支援が届いても、間に合わないことが多い

医療でも、「本当にしんどくなったら、本人から言ってくるはずだ」は危ない。
うつ病の患者、DV被害者、経済的困窮者、認知症高齢者……「本当にしんどくなった」時点では、すでに自分からは動けないことも多い。

「選べるうちに、助けにつながるかどうか」が勝負どころであって、
「もう選べない状態になったら本物」という基準は、多くのケースで手遅れに近い。

「助けて」と言えない人たち

「助けてと言えない」のは、根性や性格の問題だけではない。

代表的な背景を挙げると、

  • 頼った結果、否定・拒絶された経験がある
  • 支援を受けたことで、自由や尊厳を失う経験をした
  • いつも「迷惑をかけるな」「自分でなんとかしろ」と言われて育ってきた
  • 医療・福祉・行政への不信感や恐怖が強い

何度も期待をしたのに、須く期待を裏切られてきた人は、後天的に自分が傷つかないために「期待しない」ということを学ぶ(固く誓う)。

医療者が「もっと早く来てくれたらよかったのに」と感じる場面の裏側には、
こうした「学習された無力感」が潜んでいることが多い。

受援力の低さは、単に「支援の受け取り下手」ではなく、過去の経験に基づく、生き延びるための方略でもある。そこを無視して「ちゃんと早く来なきゃダメでしょ」と言ってしまうと、本人はさらに「やっぱり頼らなければよかった」という経験が再強化されてしまう。

学習された無力感というレンズ

学習された無力感は、何度も失敗や拒絶を経験することで、

どうせ何をしても結果は変わらない

と感じるようになる状態のこと。

これが強くなると、

  • 選択肢を探そうとしない
  • 提案されても「どうせ無理」と受け取ってしまう
  • 支援そのものを「期待してはいけないもの」として避ける

という行動パターンが固定化していく。

「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか
依存症、自傷・自殺等、多様な当事者の心理をどう理解し関わるか。大好評を博した『こころの科学』特別企画に新稿を加え書籍化。 病気であることが明らかなのに、治療を受けることを拒絶する。 学校でいじめにあっているにもかかわらわず、親や教師にそのこ...
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寓話の男も、「祈ること以外にできることはない」「本当の助けはもっと劇的な形で来るはずだ」と「学習」していたのだとしたらどうだろう。
警官も舟もヘリコプターも、彼にとっては「本当の助け」には見えなかったかもしれない。

医療や福祉の現場で支援者ができることは、
「一回声をかけてダメだったから終わり」ではなく、
小さな成功体験を積み上げて、「頼ってもいいかもしれない」という感覚を少しずつ回復させることだ。

選択肢がなくなった時点で、すでにかなり遅い

寓話の男は、最後には屋根の上、そして煙突の上まで追い詰められた。
その時点では、もはや自分でできることはほとんどない。

現実世界でも、

  • 貯金が尽きた
  • 家族関係が壊れた
  • 仕事も住まいも失った
  • 体力・気力が限界を超えた

こうなってからの支援は、もちろん必要だし、やるべきだ。
ただ、そこまで行く前に介入できていれば、防げた不幸も多い。

医療で言えば、

  • 境界型うつの段階でつながるのか、希死念慮と自傷の段階で初めてつながるのか
  • 軽度のフレイルのうちに介入するのか、寝たきり状態になってから初めて訪問が入るのか

これらは、アウトカムとコストの両面で決定的に違う。「選択肢がなくなった人」に支援が届いたとき、すでに失われたものは戻ってこないことが多い。
だからこそ、「まだ選べる段階」で接点を持ち、「今の自分が飲める条件」で支援とつながる工夫が必要になる。

「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」

(出典:John Heywood, A Dialogue Conteinyng the Nomber in Effect of All the Prouerbes in the Englishe Tongue(1546年)当時の綴り(原文に近い形):A man may well bring a horse to the water,but he can not make him drinke without he will. 裏はとっていません)

「こちらはやるべきことをやった。あとは本人次第だ」で片付けてしまって良いのか?

しかし同時に、「どう水辺へ連れて行くか」「どうすれば馬が自分から飲みたくなるか」という意味での支援力・技術は、明らかに存在する。情報提供の仕方、タイミング、関係性のつくり方、選択肢の提示の仕方によって、「飲む/飲まない」の確率は大きく変わるからだ。

支援側が「水辺まで連れてきたから十分」と自己完結してしまうと、支援は制度と書類の上では達成されていても、現実には何も変わらないままになる。支援は相手に届いて、役に立った時点で初めて支援としての体をなす。
どこまでが自分たちの責任で、どこからが本人の選択なのかを丁寧に見極めつつ、「水を飲む気持ちが生まれる環境づくり」まで含めて支援と考える視点が求められる。

まとめ

  • 支援やチャンスは、期待している形ではなく、警官・舟・ヘリのような「地味な形」で現れることが多い
  • 「本当に困っているなら選り好みするな」は半分正しいが、それを他者評価や自己責任論に使うとズレる
  • 「助けて」と言えない背景には、学習された無力感や過去の傷があることが多い
  • 選択肢が完全になくなった時点の支援介入は、たいてい遅すぎる
  • 重要なのは、「選べるうちに」「飲める条件で」支援と接続すること
  • 支援する側にも「相手が支援を受け入れやすくする」ためのノウハウは存在する。

そして何より、
「神が助けてくれる」と信じることと、目の前に差し出された手をつかむことは、対立しない。

信念や理想を持つことは大事だ。ただし、「理想の助け方」にこだわるあまり、現実の支援とチャンスを取りこぼさないようにしたい。

医療者としては、患者・家族・地域の人たちが「まだ選べる段階」で手を伸ばしやすいように、
一般の立場では、自分が「受け取れる形の支援」をあらかじめ考えておくことで、
あの男のように、三度のヘリや舟を見送らずに済む可能性が高まる。

支援もチャンスも、「今の自分が思い描いた形」とは違う顔をしてやってくる。
そのときに、「これはもしかして、自分にとっての警官・舟・ヘリなのか?」と一度立ち止まれるかどうかが、分岐点になる。

ここまで

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